古き良き日本人の在り方…軍隊式グーパンチも飛び出す恩師の武道教育

昭和57年、私立の中学に入学しました。

もともと時代劇などが好きだったので、部活動は武道と決めていました。

となると、柔道か剣道。

しかし、柔道部は部員ゼロの休止状態であり、剣道部は人数は多かったものの全員が経験者とのことでした。

そんなとき、その中学にある変わった部のことを知りました。日本の古武道を稽古するという部活動です。迷うことなく入部したのでした。

愛国心に満ちた日本史教師に合気道を習う

入部した日本武道部(仮)の顧問は繁田先生(仮)でした。

聞けば、日本武道部は元々あったわけではなく、先生の希望により10数年前に創部されたとのこと。

このあたりは、私立中学ならではといったところでしょうか。

教師としての先生の専門はイメージ通り、日本史。まだ太平洋戦争の記憶も幾分残っていた時代でした。戦争を経験し愛国心に満ちていた先生のキャラクターは、令和の今には決して存在しないものです。

そんな先生に何故か早々に気に入られ、その後1年数カ月の間かわいがってもらいました。

日本武道部の具体的な稽古内容は、主に合気道です。級や段の審査も合気道のものを受けました。また、鹿島神流という古流の技術も学びました。

体術・剣をはじめとした武器術を網羅した、おそらく日本に2つとない稀有な部活動。柔道部が休止中だったこともあって、道場も専用に使用できるものがありました。そんな環境の中で、時代劇を観て憧れていた「武士」の真似事(笑)が出来、毎日楽しく稽古していました。

また当時は、どんな部活動でも「1年奴隷・2年人間・3年神様」とされていた時代。もちろん清掃など1年生として当然の雑務に加え上級生のカバン持ちといった労働はありましたが、繁田先生の存在は生徒間の上下関係など吹き飛ばしてしまう強烈なものでした。先生は全部員、いや全生徒にとって恐怖の的だったのです。

中学生の心情を察して相撲の勝負も

さて、そんな繁田先生の指導について。

単なる部活動の顧問ではなく、自身も高段者として武道を指導していました。
よく取り入れていたのが相撲。

合気道や古流の稽古は、ひたすらに形の練習をすることが多いものです。スポーツではないので、競技・試合といったものはありません。正直言って、ときに本気の攻防をやりたくなるものなのです。

だから部員は、教室内などで頻繁にケンカをしていたのかも知れません(笑)。そんな中学生の心情を察してかは判りませんが、相撲により勝ち負けのある稽古をさせてくれたことは、一種のストレス解消にもなりました。

合宿で炸裂した軍隊式グーパンチ

1年生の夏、合宿がありました。東京の桧原村に籠り、集中した稽古や登山などで鍛えるというものです。この合宿における、繁田先生による印象的な指導は今も忘れることが出来ません。

1年生のひとりが広間を歩いていた時のこと。先生が押っ取り刀で近づいていきました。直後、その1年生は軍隊式のグーパンチをくらい、頬を抑えていました。

いわく「お前は今、畳のヘリを踏んだだろう?!それは武士の作法ではない!」

中学生ですので夜には勉強の時間も設けられていました。別の1年生が、消しゴムを取り出して使っていました。この時も、先生のグーパンチが炸裂したのです。

いわく「武士に二言はない!」

さすがに2年生は、経験から学んでいたのでしょう。誰も先生のグーパンチを受けることはありませんでした。自分自身も、それらの光景を見て細心の注意を払い、無事に合宿を終えたのです。

そんな繁田先生でしたが約1年後、正義感と厳しさからトラブルを起こし、中学を去っていきました。

後年、自分自身も武道を指導する立場となりました。

もちろん、繁田先生のような軍隊風の指導は行わず、稽古は自由に楽しめるものとしています。

ただ、現代では忘れられかけている古き良き日本人の在り方が、染み付いたように影響として残っています。

例えば、左足から座って右足から立ち上がる、といった正座の作法ひとつを取っても、知っている若者は皆無と言ってよいでしょう。そういった貴重な教えは、これからも伝えていかねばなりません。

繁田先生の訃報に接したのは、高校2年生の秋。
奇しくも日本武道部の後輩たちによる演武会が行われていた、思い出の中学道場でのことでした。

(文・大星タカヤ)