昭和63年、大学生になり柔道部に入部しました。スポーツ推薦枠などない、一般学生による弱小柔道部です。
入学早々の4月29日、昭和最後となった天皇誕生日に行われた「全日本柔道選手権大会」。全柔道人が出場を夢見る最高峰の大会を、部員全員で日本武道館まで観戦に行きました。
小川、正木、斉藤…勝つのは誰だ?
この年は、秋にソウルオリンピックが行われるということで、日本柔道界は代表選考、特に重量級で混沌とした状況にありました。
いちファンからすると山下泰裕引退後、世界で苦戦する重量級の中で誰が意地を見せるのか、興味深いところでした。
「全日本選手権」と、その後に行われる「全日本選抜体重別」が、代表決定戦と位置付けられていました。
彗星のように現れて一気に世界選手権を制した明治大学3年生の小川直也。
全日本選手権2連覇を果たしたものの、世界選手権ではまさかの惨敗を喫した天理大学出身の正木嘉美。
そして長らく山下選手につぐナンバー2と呼ばれていたものの、負傷もあり後塵を廃していた形の国士舘大学出身の斉藤仁。
「全日本」、そして代表争いは、この3名に絞られていたのです。
話題をさらった吉田秀彦の登場
下馬評では、ややリードという感じで新星・小川が本命。
それに次ぐのが、まだ日本のエースという印象が強い正木。
正直言ってセミリタイア状態という印象の斉藤は大穴、といったところ。
小川は前年の世界王者、正木は同大会の前年度優勝者ということで、両者は推薦での出場でした。
それに比べて斉藤は直近での戦績が全くないために、東京都の予選から出場。それを制しての「全日本」となりました。
オリンピック重量級代表レース以外で話題をさらったのは、後に総合格闘技のプライドのリングにも上がった、当時明治大学1年生の吉田秀彦でした。
吉田は前年度、80キロという小さな体で世田谷学園高校のエースとして大活躍。同校を団体戦3冠王に導き、自らもインターハイ個人戦を制したのでした。
もちろん、同学年として憧れの存在でもありました。
そんな吉田ですが、緒戦で体格の近いベテラン・大迫明伸に優勢負け。まだ「全日本」で勝つのは早いか、という印象でしたが、この対戦相手の大迫が重量級代の闘いに影響を与えることになります。
優勝候補・小川直也の準々決勝
さて、さすがに重量級の3選手は順当に勝ち上がっていきました。
波乱が訪れたのは準々決勝。
下馬評では本命と言われていた小川、そして吉田を破って勢いに乗る大迫の対戦となりました。
日本人離れした体格、そして若さと勢いで勝ち上がってきた小川ですが、老獪な大迫の柔道にイラついているのが見ていても分かりました。
結局、小柄な大迫を捕まえることが出来ず、僅差の判定負け。優勝候補の本命が、ベスト8で姿を消したのです。
ちなみに、この勢いのまま大迫はソウルオリンピック86キロ以下級の日本代表となりました。
今も忘れない正木vs斉藤の決勝戦
決勝戦に進出したのは正木と斉藤の2人。
勝てば3連覇となる正木と、幾度か山下泰裕に阻まれてきた初優勝を狙う斉藤との、大一番の実現となりました。
なぜ、この昭和の決勝戦が、平成を経て令和となった現在でも心に残っているのか。
地獄を見た柔道家による極限の気迫が、日本武道館2階席で観戦していた弱小柔道部員にも、震えを覚えるほど伝わってきたからなのです。
長らく「山下2世」と呼ばれながら時代を掴むことが出来ず、度重なる負傷で稽古どころかリハビリに追われてきた斉藤。かつてのような華麗な投技は影を潜め、寝技を多用した泥臭い勝ち上がりでした。
這い上がるようにして決勝まで来たからには、決して王座は渡さぬという気迫です。レベルは違えど自分自身、のちに大事な試合の前にはビデオで見返して斉藤の気迫にあやからんとしたものです。
さて、試合の方は、斉藤がとにかく前に出るという展開。
大きな技の仕掛けこそないものの、正木は防戦一方となっていました。
そして、ここぞというときは場外まで遮二無二追い込んでいく斉藤。残り1分を切ったあたりからは、その形相はまさに鬼!10分間の試合を終えると、当然のように旗は斉藤に上がったのです。
その後、「全日本選抜体重別」では決勝戦で小川を破り優勝した斉藤。大穴から代表となったソウルリンピックでは、他の日本人が全滅し史上初の「金メダルゼロ」が危惧された場面にて、またも気迫の柔道で優勝を果たしたのでした。
斉藤仁は平成27年1月、54歳の若さで鬼籍に入りました。
稀代の柔道家が昭和の終わりに見せた名勝負は、今も心に残っています。
(文・大星タカヤ)