昭和の時代はプロレス全盛期、たくさんの素晴らしい日本人レスラーがいた。
金曜午後8時という時間は、僕の一週間の中でもっとも充実している時間だ。
中一から見たプロレスも社会人になってからも見続けている。金銭に余裕が出てきた時代でもあり生観戦も増えてきたが、やはりテレビが一番だ。
僕の友人たちはほとんどプロレスを卒業している。社会に出ていろいろ新しい娯楽と出会いそちらに移っていく。友人たちには「まだプロレス見てるの?」とよく言われたものだが、僕のプロレス熱は下がることがなかった。
昭和プロレス全盛期の思い出を語ろう。
その時代は一番強かった選手は誰だろう?こんな話を学校の休み時間に話したものだ。
一番弱いと思っていた将軍KYワカマツ(若松市政)
新日本プロレスファンが多かったその頃は、やはり一番に出てくるのはアントニオ猪木の名前だ。そのほか坂口征二の怪力も凄かった。
全日ファンからは、ジャイアント馬場より、ジャンボ鶴田の方が名前は出た。では逆に一番弱かった選手はだれだろう?
もちろんプロレスラーの中での最弱という意味だ。失礼ながら、僕は国際プロレス出身の若松市政の名前が一番に出る。どうしてもマシン軍団やアンドレザジャイアントのマネージャーのイメージが強いが、彼は間違いなくプロフェッショナルレスリングの選手だ。
国際プロレスという不人気団体の前座レスラー。他、レフェリーや宣伝カーの運転、リング設営撤去、ポスター貼り、チケットもぎ。彼に出来ない仕事はない。
アントニオ猪木・上田馬之助vsアンドレザジャイアント・将軍KYワカマツ
当時、若松市政はアンドレザジャイアントのマネージャーをやっていた。そのせいもあって毎週のようにテレビに出る。
その若松が選手として両国国技館のメインイベントに立った。パートナーはアンドレザジャイアント、対戦相手はアントニオ猪木に上田馬之助、どう考えても役者が違う。
アンドレが一人で戦ったほうがマシのような気がする。それくらい負のオーラが出ていた。
一万人以上の観客から若松への声援は一つもない。罵声、失笑のみである。
悪役だった上田の方がさらに声援が飛ぶくらいだ。
格好悪いはずの若松市政に感動したのはなぜ?
僕も若松の選手としての試合は初めて見た。
まず体型が格好悪い。雰囲気も地味、個性もない、技も何もない。
アンドレと同じ赤のタイツを履いて、顔にはわけのわからないメイクをしている。そうして国際プロレスのオマケレスラー若松市政の一世一代のシンデレラが始まった。
試合はいつものように大声を上げるだけである。そして噛みつきである。大スターアントニオ猪木に噛みつく!噛みつく!国際プロレスの前座レスラーが猪木に噛みつく!
倒産した零細企業の底辺社員が、一流企業の社長に噛みつく。
社会に出て新人だった僕は真剣に若松のファイトを見ていた。日頃会社のストレスに疲れ切っていた僕は若松のファイトになぜか悲壮感を超えて感動すら覚えた。
噛みつきにより猪木は流血。がんばれ若松といっても技がまったくない。野生動物の本能によるパンチ、キック、噛みつき。一発だけボディスラムを出した。
全国のプロレスファンは全員猪木組を応援していたはずだ。若松の見せ場はない、あるとしたらそれは猪木にリンチまがいに攻撃され血祭にあげられている場面だけだ。
若松の大流血のピエロに館内は大興奮。結局最後は、大会社の社長に倒産企業の用務員さんはぼろ雑巾のように捨てられた。会場のファンは大喜びのようだ。
市会議員に当選した若松市政との縁
それから数年後、若松は僕の住んでいる近郊の街の市会議員に当選した。
たまたま、近郊の温泉施設の脱衣場でばったり会った。若松ファンとして「いつも見ていましたよ」と声をかけたら、にっこり「ありがとう」と握手し別れた。
その後ふと仕事の関係で若松と関わることになり、その日から呼称は若松から若松さんとなった。一緒に食事をする機会も増えある日、例の試合のことを聞いてみた。そうすると「猪木さん、上田さん…」という言葉から始まった。プロレス界の先輩であるお二人にはさんづけである。
若松さんからは、新日本プロレスやアンドレにたくさんの感謝の言葉を聞いた。それともう一人古舘伊知郎氏への感謝である。若松さんは古舘氏の言葉のマジックにより日本プロレス史上初のマネージャーとして大成功した。
その後、一度二人であの試合のDVDを見た。若松さんの背中は仕事をやりきった男の背中であり、その瞬間は、やはり将軍KY若松だった。
50歳を過ぎた僕は、77歳の現役レスラー将軍KY若松の興行の手伝いをしている。人間の縁って不思議ですね。あのころ会場で「ワカマツ帰れ!ハゲ!!」てヤジ飛ばしていたのは僕です。
(文・GO)