60年代の過酷なアマチュアボクシング事情…負けるよりも怖いこと

70代の今も鍛錬を続ける元プロボクサーが、思い出の60年代を振り返る。

60年代前半は空前のボクシングブーム。そして、68年には梶原一騎原作の人気漫画『あしたのジョー』の連載が始まった。

そのような時代に、若者は危険な試合に挑むことになった。

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私の短いボクシングキャリアで心に残っている試合はプロに転向してからの試合ではなく、実はたった6戦しかしなかったアマチュアの6戦目、つまり最後の試合なのです。

それは国体の地区予選に出た時の事で、当時私は大学1年生のまだ19歳になったばかりで体も出来ていませんでした。ただ、高校生の時に3試合を行い、プロのジムのアマチュア部所属という肩書で3勝2敗のアマの戦績で予選に臨んだのです。

そんな私がいきなり大阪府予選の決勝に出ました。準決勝で戦うはずだった相手が急遽棄権したので、いきなり決勝戦となったのです。

60年代、まだ安全性の意識は低かった

当時(1960年代中盤)のアマは日程の都合か、1日の内に2試合や時によっては3試合を戦うこともあり、場合によってはプロの試合よりスケジュールだけ見るとハードな事がありました(もっとも、1日3試合も出来る選手はトーナメントに勝ち進むから出来るわけで、ダメージはほとんど残らないのでしょう)。

ただ、計量(当日のみ)はプロの試合の時の様に天秤式の体重計を使った精度の高いやつではなく、普通の乗っかるだけの家庭にもある様な体重計でした。

アマは当時のフライ級リミットが51キロでしたが、高校ではリミットが47キロのフリー級(今は廃止)で戦っていた私は確か50キロにも満たない体重でした。決勝の相手との体重差は3キロ近くあり、これが如何に危険な対戦だったかは当時の私には知る由もありませんでした。

体重差、キャリア差のある相手とのハードな試合

今思い出すとぞっとします。当時のアマチュアボクシングの健康管理は結構ずさんでしたね(現在は体重別の階級ももっとキメ細かくなり、名称も変わりましたし、昔はプロと同じグローブを使っておりましたが、現在ではダメージを与えにくいアマ仕様のグローブに変わっております)。

いきなりベテランの大学生との決勝となった私は緊張の1ラウンド目を何とか互角に戦い終えたと思います。ただ、第2ラウンドの事は全く覚えていないのです。何故なら、私は2ラウンド2分30秒でノックアウト負けを喫したからです。

いきなり耳元で「大丈夫か?もう少しじっとしておけよ」というトレーナーの声でソファーに寝かされている自分に気が付いたわけですが、KOされた私はそのとき意識が飛んでしまっていたみたいで、文字通り、「私は誰?ここはどこ?」の状態でした。

そして、トレーナーに「今日はダメージが大きすぎるので、この試合だけにしておけ」と言われました。

最もハードだったのは勝ち続けた選手?

実は国体予選とは別に社会人の選手権の予選も同じ日に同じ場所で行われていたのです。私をKOした選手ではありませんが、他の階級の選手で国体予選を勝ち、社会人の試合の方も複数の試合で圧勝した選手が何人かいました(有名な選手なので名前は控えます)。

勝ちさえすれば1日に2試合どころか3試合もしていたのです(いくら強いからといって、3試合も1日にするのは今から思うとよくそんな無茶な事をさせたなと思います。一発もパンチを喰わないなんて事は有り得ませんから)。

アマとはいえ、頭にダメージを与えあう競技ですから、何があるか分かりません。私の場合ですが、トレーナーが止めてくれなければ、あのまま次は社会人の選手権の方にも同日出ていたかも知れません。

今考えただけでもぞっとします。私はその晩は頭が痛くて一睡も出来ませんでしたから、もし、もう1試合やっていたら、たとえ結果的に勝ったとしても、頭のダメージ的にはタダでは済まなかったと思います。

ボクシング界の課題についてひとこと

この様にアマの試合はトーナメント制が多いので、同じ学校の選手同士が勝ち上がって次に対戦する事になると、後輩の方が棄権して、先輩がその先の試合に出場し、反対側のブロックから上がってきた実力的に遥かに劣る選手との対戦が組まれるという危険な状況が生まれかねません。

現在に目を向けると、アマチュアボクシング界も昨年業界を長年に渡って牛耳っていたドンがいなくなり、大分運営方法もクリーンになりました。是非とも昔に逆戻りしない事を祈っております。

2020年東京オリンピックのチケットの販売が5月9日(2019年)より始まりましたが、ボクシングの所を見てみてください。IOCにより計画を凍結中とのことです。ここには一口では言えない込み入った事情があるのですが、日本のみならず世界レベルでのこの世界の透明性の向上が望まれます。