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柔道選手が初期MMAを振り返る…中井祐樹が見せた色褪せない技術戦

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RIZINやUFCで見ることができる、打撃あり寝技ありの攻防は今でこそ当たり前ですが、90年代のある時期までは存在しませんでした。

当時、「バーリトゥード」と呼ばれ、まだ全貌が明らかでなかった新しい格闘技に、熱い眼差しを送る現役柔道選手がいました。

* * *

平成4年となる1992年に大学を卒業し、実業団柔道部に入団しました。

学生と違い、勤務との兼ね合いもあって、練習環境は自分で整えるものでした。時間も限られてくるので、体力トレーニングの時間を増やすなど、色々と工夫をしたものです。

その中で、他競技の練習を取り入れるということがありました。これは学生時代、史上最強と言われていた柔道家・木村政彦の著作を読み、その他流試合などの経験から影響を受けて、かねてから興味を持っていたものです。

具体的には、偶然の出会いもあり、ロシアの国技・サンボの道場に通うことになりました。サンボは、柔道では許されない脚への関節技や、いわゆる変則的な組み手からの投げ技に特徴のある格闘技。ロシアン柔道という呼称もあるくらい、柔道とは歴史的にも技術的にも深い関係性を持つものです。

前田日明らがUWFやリングスといった団体でサンボ技術を取り入れたり、選手をリングに上げたりして話題となったこともありました。

そんなサンボの道場に通う中で、さらに総合的な格闘技術に触れる機会に恵まれていったのです。

初めて知ったグレイシー柔術とヒクソン・グレイシーの存在

1993年、世界中の格闘競技者に衝撃が走りました。

アメリカ・コロラド州デンバーにて「アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ」が開催されたのです。

言うまでもなく、現代のMMA最高峰とされる「UFC」黎明期の大会。今では考えられない、いわゆるワンデートーナメントとして行われました。

優勝したのは「グレイシー柔術」なる流派名を名乗る、ホイス・グレイシー。まだインターネットのない時代、スポーツ新聞にて同大会が行われたことを知りました。

すぐにピンときたのです。

「グレイシー」は、木村政彦の著作に登場した「グラッシー」のことではないかと。

追って発売された専門誌を読むと、やはり思った通りでした。ホイス・グレイシーは、木村政彦と闘ったエリオ・グラッシー(=グレイシー)の息子とのことでした。そのエリオが、まるで往年の日本武道のように一流一派をなしている!

このときから自分の中で「グレイシー柔術」への探求心が溢れ、様々な資料や情報を求めるようになりました。もちろん、自分自身がプレイヤーとなることも視野に入れて。

その後、買いあさった専門誌などで徐々に「グレイシー柔術」に関する情報が出始めました。ルーツは日本の柔道家・前田光世だということ。「アルティメット」はバーリトゥードと呼ばれる他流試合であって、柔術のコンペティションは別に存在すること。それは柔道やサンボに似た、着衣の組技競技であるということ。

そして、宗家たるグレイシー一族にはホイスをはるかに上回る「ヒクソン」という最強そして無敗を誇る兄がいること。

何よりも、ヒクソン・グレイシーという男に対して興味と幻想を抱かないわけにはいきませんでした。

バーリトゥードジャパン関連の雑誌やビデオは全部そろえた

1994年、その男は意外と早くベールを脱ぎました。

日本における総合格闘技のはしり「シューティング」が独自のレギュレーションを考案し開催した「バーリトゥードジャパン」という大会に、ヒクソン・グレイシーの出場が発表されたのです。

シューティングは、初代タイガーマスクとして一斉を風靡(ふうび)した佐山サトルにより創始されたもの。

さっそくグレイシー柔術にアクセスを図った慧眼に脱帽したものです。そんな同大会で行われたワンデートーナメントにおいて、下馬評通りヒクソンは無傷で優勝しました。

かたやシューティングを代表して出場した日本人選手は、ことごとく惨敗を喫したのです。その様子を収めた雑誌やビデオテープは、全て購入しました。ある評論家が「ヒクソンは宮本武蔵ら古の剣豪のような達人」とコメントしていたのですが、その通りの姿をテレビ画面の中に観ることが出来たのです。

同じ柔道寝業師としてライバル視、応援もした中井祐樹

1年後、再び行われた「バーリトゥードジャパン」に、またヒクソン・グレイシーがやって来ました。

今回はプロレスラーなど、さらにグレートアップした参加メンバー。前田日明率いる「リングス」から山本宣久が出場することも大きな話題となりました。そして主催者たるシューティングは70キロの軽量・中井祐樹を送り出していたのです。

ここで、中井祐樹という選手について。

非常にマニアックなスポーツではあったものの、シューティングの中ではチャンピオンとして名前のある選手となっていました。

そして個人的には、北海道大学柔道部の出身ということに注目していました。

北海道大学も含めた国立7大学による柔道対抗戦「七帝」は、戦前の高専柔道の流れを継いだ寝技中心の大会。学生時代から寝技を得意としていたので、自分勝手にライバル視していた世界でした。

そこから総合格闘技に転じた選手を意識しないわけにはいきません。ただバーリトゥードジャパンにおいて中井への一般的な注目度は低く、一部の人間からのみヒクソン・グレイシー戦に期待が持たれていたのです。

さて、そのバーリトゥードジャパン1995年大会。

中井祐樹は緒戦で空手家ジェラルド・ゴルドーを脚関節技で撃破するなど、得意の寝技を駆使して決勝進出を果たしました。

日本に中井あり、を初めてと言ってよいメジャーな舞台で見せつけたのです。

しかし、ゴルドーとの試合で反則行為により片目を失明してしまったことは、この時点では本人すら気づいていませんでした…。

そして王者・ヒクソン・グレイシー。

緒戦ではロープにしがみつき闘おうとしない山本宣久にイラつきを見せる場面もあったものの、やはり実力の差を見せ危なげなく決勝まで上がってきました。いよいよ、一部でしか期待されていなかった決勝戦が実現したのです。

ヒクソン・グレイシーvs中井祐樹

荒っぽい試合が多かった当時のバーリトゥードでは珍しく、決勝は至高の技術戦でした。

ほとんど打撃を用いることはなく、すぐに寝技へ。

脚を効かせる中井。

パスガード→マウント→バックと流れるようにポジションを奪うヒクソン。

20年以上を経て振り返っても色褪せることのない、寝技の教科書とも言える攻防が展開されていました。もっとも中井としては、その後の更なる進化にこそ刮目してほしいところでしょうが…。結局、チョークを極めて勝利したのはヒクソンでした。

この大会の模様は後日、これも現在では殆ど無い現金書留の送付による通信販売で入手したビデオテープを、擦り切れるほど繰り返し見たものです。

その後、ヒクソン・グレイシーは東京ドームにて3試合を闘い、無敗伝説を守ったまま現役を引退しました。

この大会で片目を失明した中井祐樹はバーリトゥード、そして「修斗」と改名したシューティングのリングから去らざるを得なくなりました。

しかし中井祐樹の挑戦は続きます。「柔術に柔術で勝つ」と宣言し、北海道大学柔道部以来となる道衣に袖を通したのです。

グレイシー柔術の名称が商標権のトラブルで使われなくなり、その競技はブラジリアン柔術と呼ばれていました。競技者としてはもちろん、自らの道場「パレストラ(現在はパラエストラ)」を開設。競技連盟を牽引するなど、日本のブラジリアン柔術は中井が切り開いたといっても過言ではないでしょう。

後年、自分自身も中井祐樹と知り合う機会に恵まれ「ブラジリアン柔術」をアイデンティティとして人生を歩む運命が待っていました。

その意味でも、「ヒクソン・グレイシーvs中井祐樹」の一戦を決して忘れることは出来ないのです。

(文・大星タカヤ)

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