関西柔術界のレジェンドの総合格闘技デビュー戦でセコンドを務めた話

ブラジリアン柔術が日本に知られ始めたのはおそらく1993年あたりだったと思います。ちょうど柔術家のホイス・グレイシーがアメリカの総合格闘技界で話題になっていたときです。

当時の私は合気道を学びながら、より実戦的な合気道を練習したいと思い、合気道の先輩とつるんでは、プロレスの技を練習していました。

そのプロレス同好会的なサークルの中心人物が、現在は関西柔術界のレジェンドとされるM先輩でした。

手探りでブラジリアン柔術を研究

M先輩は私の合気道の先輩のご友人にあたる方です。格闘技は未経験。本職が大工さんだったので、腕力があるかと思いきや、ベンチプレス60キロも上げられないとのこと。しかし、全身の力が凄まじく、ナチュラルパワーだといっては同好会の皆からタップ(ギブアップの意思表示)を奪っていました。

そんな時、今は廃刊となりましたが「格闘技通信」という雑誌を読みながら、M先輩は、「柔術、やってみいひん?」と皆を誘いました。

もっともブラジリアン柔術の練習場所はおろか、どういう格闘技かも分かりません。そこで、アメリカで販売されていた「グレイシー・アクション」というビデオを購入し、皆でああでもないこうでもないと言いながら、自分たちの柔術を研究していました。

格闘技歴2カ月で総合格闘技に参戦

その後は格闘技通信の掲示板で、「柔術練習生募集」の告知をしたところ、様々な格闘技の猛者が興味をもって練習に参加するようになり、柔術専門の道場として神戸市西部に看板を上げることになりました。

そんなある日、M先輩が、「アマチュア・シューティング 関西オープンマッチ」なる試合に出てみたいと言いました。ルールは、打撃、投げ、寝技ありの、3分ワンマッチの試合でした。

確かに、先輩は道場内では無類の強さですが、なにしろ格闘技歴2カ月です。私は、先輩に無茶ですよといったところ、「いやあ、主催者もこっちの経歴を見て、似たような相手を選ぶやろ」とあっけらかんとしていました。

試合3日前に、対戦相手の通知がされました。対戦相手はプロレスラー(剛軍団所属)で、現在もプロ・シューターとして活躍するR選手でした。それを聞いたM先輩は、「どうしよう…」と困り顔でした。

セコンドに任命される

私は当時、柔術道場では最も年下で、M先輩は私を弟のように可愛がってくれました。私も兄のように、M先輩を慕っていました。

試合当日、M先輩は私に、セコンドに立ってくれと言いました。選手に適切な助言をするのがセコンドの役目です。当時、道場にはセミプロの格闘技選手もいたので、私なんか出る幕がありません。もっと優秀な人をセコンドにすべきだと先輩に伝えました。

M先輩は、私に「トリエラ、お前ははっきり言って弱い。力もない。でも、この道場で体重差20キロをものともせんで、引き分けに持ち込んでる。お前の柔術の技術は道場で最高や。今の俺は、お前の技術を頼りたい」と言ってくれました。

私は、思わず泣きそうになりましたが、そんなことしてる暇はありません。セコンドを引き受けますといって、いっしょに競技場へ行きました。

プロレスラー相手の試合展開は?

試合開始後、すぐにR選手は右のハイキックを放ち、M先輩の顔面にヒットさせました。試合後、M先輩の鼻は骨折していましたが、試合中はお互い分かりません。

そのまま、M先輩はR選手を寝技に引き込みました。しかし、相手はプロレスラー、容易にパスガード(寝技において、相手のガードを破って攻撃に転じること)を取らせてくれません。

私もR選手のスキを伺おうとしましたが、完璧なガードポジションでM先輩は微動だに動けません。そのまま3分が過ぎ、試合終了となりました。結果は、初手のR選手のハイキックがポイントになり、M先輩の判定負けになりました。

この試合で心に残ったのは、普段はおちゃらけたM先輩がしっかりと自分を見てくれていたこと、そして信頼してセコンドに任命してくれたことです。そして、自分のように才能がない者でも、こつこつと努力すれば十分に才能ある人間と渡り合えることを学びました。

(文・トリエラ)