市原海樹vsホイスグレイシー…大道塾生がUFC挑戦に興味が無い理由

約20数年前、大学生だった私は大道塾というフルコンタクト系の空手団体に入門していました。

大道塾ではスーパーセーフという顔面全体を覆うヘッドギア防具をつけて顔面パンチ、投げ技、締め技OKの北斗旗ルール(現在は空道ルールと改称)で試合を行います。

90年代の総合格闘技事情

1994年時点では、まだ総合格闘技やMMAといった言葉はありませんでした。

大道塾の北斗旗ルールは当時としては打撃、投げ技、締め技全てを認めている珍しいルールでした。

当時の格闘技界は、正道会館がK-1を興行として成功させたことで一時代を築きつつありました。

グレイシー柔術とヴァーリトゥードの登場

その一方で、グレイシー柔術が注目されはじめた時期でもありました。

それまで謎のベールに包まれていたグレイシー柔術が、その強さを証明したのが、1993年のUFC第1回大会でした。

日本でも名前の知られたジェラルドゴルドー選手、ケンシャムロック選手が出場するなか、優勝したのはグレイシー一族のホイスグレイシー選手でした。

ヴァーリトゥードと言われるほぼノールールの過激な試合、宗家であるグレイシー一族の無敗伝説などが話題を呼んでいました。

UFCに挑戦した大道塾・市原海樹

そのUFCに日本人として初めて挑戦したのが、大道塾のエース選手であった市原海樹選手でした。

格闘技専門雑誌で市原選手がUFCに挑戦するという記事を見た時、私は大道塾の塾生というよりも、ひとりの格闘技ファンとして心をときめかせていました。

テレビ中継の無いUFC第2回大会

UFC第2回大会はアメリカのコロラド州デンバーで開催されました。

当時、日本ではUFCは一部の格闘技ファンのみが知っているという感じでしたので、地上波テレビはもちろんのこと、BS、CSなどでの放送もなかったと記憶しています(BS、CSそのものも多チャンネル化が始まったころでした)。

したがって試合をリアルタイムで見ることはできず、何とかして試合結果だけでも知りたいと思っていました。

意外?大道塾生の間では話題にならなかった

大道塾内で何かしら発表があるのではと思っていたのですが、何もありませんでした。

指導員や塾内の先輩の間で話題になっていることはなかったので、私のほうから話を持ち掛けてみましたが、一様に「挑戦したらしいね」、「知らない」というそっけない返事でした。

どちらかというと、そもそも興味がないという印象を受けました。少なくとも私が所属した支部では市原選手やUFCで浮かれているのは私だけであり、他の塾生はそもそも興味がないという感じでした。

結局、試合結果を知ったのは試合があった翌月に発行された格闘技専門雑誌であり、試合を見たのは大会から何か月か後に発売されたビデオ(しかもDVDではなくビデオテープ)でした。

試合経過、試合結果を知っているとはいえ、手に汗握る思いで試合を見ました。

ホイスグレイシーのパターンに持ち込まれた

市原海樹選手の持ち味はボクシング経験に裏打ちされたパワーのあるパンチですが、そのパンチを十分に発揮することなく、テイクダウンを取られました。

当時のホイスグレイシー選手は相手をテイクダウンさせてからマウントパンチや締め技の連続に持ち込むパターンを得意としていましたが、市原選手もこの得意パターンに持ち込まれ、片羽絞めでタップ負けとなりました。

UFCの試合としては淡々と進んだ試合という印象を受けました。市原選手の道着の一部が血で染まっていたものの、壮絶、過激という感じではありませんでした。

身長168センチで重量級、無差別級を闘った市原海樹

大げさに言えば、私は市原選手に憧れて大道塾に入門したと言っても過言ではありません。

大学進学を期に、実際に格闘技をしてみたいと思うようになりましたが、どの団体に入門するか決めかねているときでした。

格闘技専門雑誌で大道塾のエース選手である市原選手の身長が私と同じ168センチであることを知り、親近感を持ちました。

168センチという身長は階級別、体重別の格闘技でもない限り、格闘技では不利な身長です。その不利にも関わらず、市原選手は重量級、無差別級の大会を連覇しているのです。

小柄でも強い市原選手みたいになりたいという、こどものような気持ちで大道塾入門を決めました。入門してからも、さすがに市原選手と闘ってみたいという空恐ろしいことは考えませんでしたが、憧れの対象でしたし、格闘技専門誌を毎号買って大道塾の動向もつかんでいました。

市原選手のUFC挑戦の情報もそうですが、当時の一般の塾生レベルでは、塾内の情報は、専門雑誌の情報で知ることのほうが多かったと思います。

大道塾生がUFC挑戦に興味がない理由

市原選手のUFC挑戦に対して、少なくとも私の所属する支部では興味のない塾生が多かったのですが、塾全体でも熱心に興味を持っている塾生は多くはなかったのかもしれません。

当時のプロレス界、格闘技界では、選手が他の格闘技、他団体の選手と闘うとき、「団体の名誉をかけている」という言葉がついてきました。

選手は団体の代表なので絶対に負けられないという悲壮な思いで試合に出ているというイメージです。確かにわかりやすい図式であり、実際にそのようなコメントをする選手は多くいました。

しかし、当時の大道塾は違った雰囲気がありました。どちらかと言えば、選手も大道塾を代表するという意識は薄く、大道塾も選手に過度に干渉しないという感じです。

しかし、突き放す、勝手にしろというのではなく、選手の好きにさせる、自主性に任せるという自由な雰囲気です。

例えば、市原選手のUFC参戦以前にも、エース級選手が急きょムエタイに挑戦することもありました。そのような団体のプレッシャーを背負わない選手の心情はUFC大会出場前の市原選手の言葉にも表れています。

「僕は僕の心の中にあるものだけのために戦う」

UFCで敗戦した市原選手は、その後しばらくして、大道塾、格闘技から引退しました。現在でも、市原選手は格闘技とは無縁の生活を送っているとしか伝わっていません。若かった私の心を熱くさせた市原選手は、今、どこの空で、何を思って、何と闘っているのでしょうか。

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