中谷潤人の恩師が見せた名勝負!石井広三vsネストール・ガルサ

中谷潤人(M.T)が見事世界タイトルを奪取しました。1998年1月生まれの中谷は、石井広三vsネストール・ガルサの試合が行われたときにはまだ物心がついていない頃だと思います。

しかし三重県出身の中谷潤人は、地元三重県で石井広三が開いたボクシングジムでボクシングを始めたと聞いています。

中谷の初戴冠を見て、この石井広三の短くも太いボクシング人生、いや人生そのものを思い出した人も多かったのではないでしょうか。

石井広三というボクサー

時は1999年の11月、石井広三というボクサーがいました。1995年にデビューし、1996年の中部日本新人王となりましたが、西部日本新人王との決定戦に敗北し新人王にはなれませんでした。

しかし1999年にOPBF東洋太平洋王座決定戦でディノ・オリベッティ(フィリピン)を下し、初のタイトルを獲得。その剛腕をもって1Rで獲得したその王座は、東海地方ではじめて獲得されたOPBF王座でもありました。

当時のボクシングは今以上に東京近郊が中心でした。そんな中、東海地方でも、飯田覚士や戸高秀樹といった世界王者が続々と生まれ、注目も集まってきていた頃だったように記憶しています。

石井広三vsネストール・ガルサの試合展開

1RTKOでOPBF王座を奪取した剛腕パンチャー。組まれた試合はWBA世界スーパーバンタム級タイトルマッチ。王者はメキシコのハードパンチャー、ネストール・ガルサ。

37勝(29KO)1敗という戦績を持つガルサは、2度目の防衛戦での来日でした。

前戦から、ハートの強いハードパンチャー同士の一戦ということで打撃戦が予想されていた試合ではありました。蓋を開けてみれば、想像以上の打撃戦を、二人のボクサーが繰り広げます。

まさに一進一退の攻防とはこのことで、両者ともに怯まず、強打を繰り返し振るい続けます。この年、年間最高試合にも選出されたこの一戦は、今見ても拳に力が入り、感動で鳥肌が立ちます。

ともに譲らず、11Rまでの公式採点は1-1(ジャッジ一人はドロー)という全くの互角の展開。

しかし最終12R、残り時間も少なくなってきたところで、ガルサが最後の気力を振り絞ってチャージ。石井は徐々に手が出なくなり、ガルサの左フックを受けたところでレフェリーが割って入り、TKO負けを喫してしまいました。

中谷潤人に声をかけ続けた石井広三

この試合のあと、歴戦のダメージなのかガルサはほどなく王座を陥落。

この試合で大きく株を上げた石井は、当時22歳。しかしこの敗戦のくやしさからかハードワークを行い、腰を疲労骨折。この腰の故障は、今後ずっと悩まされ続けることになりました。

この試合の約1年後の2000年11月にヨベル・オルテガ(ベネズエラ)と暫定王座決定戦を争い、本来の力を発揮できずにTKO負け、2003年にはオスカー・ラリオスに挑みますが2RTKO負け。

ガルサ戦後、大きく力を落としてしまった石井広三。

まだ幼い中谷潤人に、「世界王者になるんだぞ」と声をかけ続けたそうです。

石井広三死亡の謎?中谷の活躍は届いているか

2012年7月5日、遺体で発見された石井、死因は交通事故死との発表でした。

当時まだ14歳だった少年は、石井が世界に初挑戦した年ごろと同等となり、三重県出身で初の世界王者となりました。

師である石井とは全く異なったファイトスタイルではありますが、そのハートの強さはしっかりと受け継がれているように見えます。

20年以上の時を経て、ようやく届いた世界の頂。この必然を、天国にいる石井広三はきっと喜んでいることでしょう。