厳しい監督と、休日のない柔道部の稽古…社会人になり見方も変わる

私が高校生の頃、お世話になった柔道部の監督である恩師についてお話しさせていただきます。

私は、小学生のころは野球をしていまして、中学1年生から柔道をはじめました。身長が高くて、当時では珍しく手足の長い外人体型だっだ私は、中学に入るとすぐにその頭角を現していきました。

中学2年でレギュラー入り、3年生になる頃には県でトップクラスの実力を付けていき、常に上位の成績を収めていきました。

私立高校からの推薦もありましたが、私は大学に進学したかったので、高校は進学校でありながら柔道の名門であるK高校に入学しました。その時の監督が、今の自分を形成していると言っても過言ではない、多大なる影響を受けたK先生なのです。

逃げ出すことも考えた柔道部の稽古

K先生の指導方法、それは凄まじく厳しいものでした。部員たちには容赦なく罵声を投げつけ、鉄拳制裁は当たり前、毎日が地獄でした。

何度も何度も辞めよう、逃げ出そうと試みました。しかし、共に地獄を味わって耐えている仲間のことや、やはりK先生の顔を思うと、辞めることや逃げ出すことはできなかったです。

先生の口癖は、「執念、一度は死ぬ気でやってみろ」でした。しかし、稽古が終わるととても優しい時もあり、切り換えが上手だったので、みんなからとても愛されている先生だったと思います。

全くの素人から柔道を始めた苦労人

K先生は高校までバレーボールをされておりました。その後某体育大に進学し、経験のあるバレーボール部には入らずに、全くの素人でありながら柔道部に入部されたのです。

当時の話をお聞きしたところ、周りは皆、名選手ばかり。中には日本代表の選手もいたりして、とても歯が立つものではなかったそうです。立ち技では組むことさえままならず、投げられてばかりの日々。

寝技は更に酷いもので、毎日毎日絞め落とされていたそうです。

しかし、K先生はその悔しさをバネにして、死に物狂いで毎日の苦しい稽古に励み、実力をつけていったそうです。

その血と汗と涙の滲むような努力の結果、大学4年生の時には副主将に抜擢されるほどになったとのことでした。自分でも厳しい環境を乗り越えてきた経験があるので、部員たちへの指導も自ずと厳しいものになったのでしょう。

家庭よりも部活動…今とは異なる時代背景

当時、私の学年は、県でもトップクラスの強豪選手を寄せ集めていました。なぜなら、高校3年生の時には地元でのインターハイ開催が決まっていたため、強化対策として選手集めをしていたのです。

当然ながら、練習が休みの日は一切なく、土日返上で稽古をしていました。

もちろんK先生も休みなしで、私たちと一緒に、日々厳しい稽古に打ち込んでくれました。今、私が社会人になってみて先生と同じように、休み返上で指導できるかのかと問われると、まず無理だと思います。

当時の、K先生による厳しすぎる稽古や指導は、今思うと最大の愛情だっだのではないかと、嬉しく懐かしく思ってしまいます。

今の教職員指導体制はワークライフバランスなどで仕事と家庭の両立をスローガンとしていますが、当時のK先生は、家庭よりも私達生徒を優先してくれていました。

そのバイタリティーと愛部精神には頭が下がる思いです。

K先生は、いろいろな大学の監督とネットワークを持っていたので、私たちの同級生15人中14人を名門大学に推薦してくれました。

私が某有名体育大に入学できたのもK先生のおかげだと思います。

大学でも、いろいろな先輩、後輩、同級生と出会いがあり、人の繋がりの大切さを学びました。

大学卒業後の就職、転勤などでも、私が難なく乗り越えてこれたのは、K先生が教えてくれた人と人との繋がりのおかげだと思っています。

K先生から学んだことは、何十年経った今でも、人生の糧として私の中に強く生き続けています。

(文・ダッカー)