WBO世界フライ級チャンピオンの田中恒成が2019年8月24日に名古屋で同級1位の指名挑戦者のジョナサン・ゴンサレス(プエルトリコ)を7ラウンドにTKOで破り、2度目の防衛に成功した。
その内容は、昭和のフライ級黄金時代を知る者にどのように映っただろうか。
田中恒成vsジョナサン・ゴンサレス
田中はテクニシャンのゴンサレスにてこずり、KOするまでのポイントではややリードされてはいたが、これは相手が動きの速いサウスポーという事もあり、戸惑った感じで、慣れるのは時間の問題だと思って見ていた。
案の定、3回には田中の右ストレートが相手のボデーに少しカウンター気味に入り、ゴンサレスは一呼吸置いた感じでダウンした。あまりフライ級辺りの軽量級の世界戦で、前半にボデーでダウンが起きることは少ないが(モンスター井上尚弥は別格中の別格)、明らかにあれで勝負はあったと思えるようなダウンシーンだった。
その後は、アンラッキーなパンチでダウンを奪い返された田中だが、7回に入ると動きがスローになったゴンサレスにボデーをたたみかけて打ち、3度ダウンを奪ってレフェリーストップを呼び込んだ。
無敗の24歳の田中が連勝記録を14に伸ばし(8KO)。ゴンサレス(28歳)は打たれ弱さを露呈して、3度目の敗戦を喫し(すべてKO負け)、22勝(13KO)3敗1分け1無効試合となった。
WBO1位、ジョナサン・ゴンサレスの実力は?
ここで田中の勝利に水を差す気は毛頭ないが、気になるのは挑戦者ゴンザレスの実力の程だ。
ゴンサレスはWBOにしかランクされておらず、他のWBC、WBAやIBFにおいては世界ランキング15位までには全くランクされていない。恐らくはWBO傘下のローカルのタイトルを獲得し、防衛していたのが、WBOが彼を1位にまでランキングを上げた理由だと思われる。
普通はライバル団体とはいえ、1位の選手なら、他の3団体も最低でも下の方にでもランクしていることが多いのだが、ゴンサレスの場合は、最新のランキングで、どこにも名前が見当たらなかった。
世界ランキングの1位と言っても、昔の様に認定団体が1つしかなく、しかも、世界ランカーと言えば1位から10位までで、しかも、その中で世界タイトルに挑戦する資格を持つ選手はせいぜい3~4人(ロジカルコンテンダーと呼んでいた)しかいなかった時代を知っている者から見れば隔世の感を禁じ得ない。
思い起こす矢尾板貞夫の時代
昭和30年代から40年代前半のフライ級の挑戦者はゴンサレスほど脆い選手は私の知る限りいなかった。
現在の花形ジムの会長で、日本プロボクシング協会の会長に最近就任した花形進は(田中の試合でリングサイドの一番前の席に座っていた)世界タイトルを5度目の挑戦で獲得したが、それまで挑戦して負けた試合は全て判定負けだった(当時は15回制)。
矢尾板貞夫はこの花形よりも前にデビューした選手で、東洋フライ級王者としてそのテクニックで絶大な人気を誇り、一世を風靡した。
一度日本人初の世界チャンピオンになった白井義雄から奪ったタイトルの防衛戦の相手として来日したパスカル・ぺレスと1959年に大阪で対戦。
結果はKO負けとなり王座獲得はならなかったが、この試合に対する日本国内の熱狂ぶりには物凄いものがあり、国を挙げての応援という感じがあったことを今でもヒシヒシと覚えている。
矢尾板はその後も東洋タイトルの防衛を続け、世界ランキングも1位を維持し続けた。そして、ファイティング原田や海老原博幸との対戦で有名なタイのポーン・キングピッチへの挑戦が決まり、新聞でも大きく報道された。
矢尾板ならキングピッチに楽勝だろうと言うのが当時の予測で、私もそう思っていた。
ところが、矢尾板はマネージャーとのトラブルで、突如引退を発表し、あっという間にリングから去ってしまった。恐らく挑戦していれば王者になっていた確率は高かったと思う。それに、東洋チャンピオンであるにも係わらず、その名はあまねく知れ渡っており、日本中に衝撃を与えた。
正直な話、現在のフライ級の世界チャンピオンで、全盛期の矢尾板に勝てるイメージが全くわかない。恐らくフライ級のオールタイムランキングをやれば、矢尾板は上位1~3位辺りに来るのではないかと思う(モンスター井上尚弥はまだ現役なので別格。それに、フライ級に絞っての話)。
現在でも後楽園ホールの記者席によく来ているが、気づく人は誰もいない。思えば、世界チャンピオンにこそ成れなかったが、矢尾板は良い時代にボクシングをしたのではないかと思う。
と、この様に世界フライ級タイトルマッチの挑戦者が脆いと、ボクシング全盛期に、今なら当然世界チャンピオンに成れた選手はどんな気持ちで試合を見ているのだろうと考えてしまう。しっかりしろ!フライ級の挑戦者達、と言いたい。