オリンピック選手が地元に!柔道少年が古賀稔彦との乱取りで得たもの

柔道を始めて1年半が経った中学2年生の頃、力が急激についてきたのか試合でも勝ちが多くなってきました。

しかし、自分より格段に強い相手と練習をする機会がなかったので、体の大きな選手には勝てなくなっていたのが課題でした。

地元に古賀稔彦選手が来た!

中学2年生になった平成2年の6月に、出身中学の町民体育館で、古賀稔彦選手を招いて柔道教室が行われました。

柔道部の顧問の先生は日体大でキャプテンでした。その人脈を生かし、全国高等学校柔道大会に向けた強化の一環として古賀稔彦選手を招いてくれたようです。

古賀稔彦選手は昭和63年に行われたソウルオリンピックにも出場されましたが、3回戦で敗れ残念ながらメダルに届きませんでした。古賀稔彦選手自身、バルセロナオリンピックでの挽回に向けた大切な時期に柔道教室に来てくれたことになります。オリンピック選手が来県されるということでとても話題になったのを覚えています。

最初に古賀稔彦選手の講堂学舎での思い出話にはじまり、次にソウルオリンピックで金メダル確実と言われながら負けてしまって、日本に帰りたくなかったエピソードが語られました。古賀稔彦選手ほどの選手でもかなりのプレッシャーがあったことを知りました。

日本のお家芸である柔道でメダルすら取れなかった悔しさは相当なものだったと思います。

間近で見る古賀稔彦の背負い投げの稽古

実技では古賀稔彦選手得意の背負い投げの基本の教室が行われました。背負い投げの入り方、一本背負い投げの入り方、背負い投げの打ち込みを実際に披露して下さいました。

形がとても素晴らしく芸術的であったのと、ものすごいスピードでの打ち込みだったので、一流の選手はこういう稽古方法を当たり前にするのかと驚きました。

その次は投げ込みを披露して下さいました。平成の三四郎と異名をとられていただけあって、これまたものすごく綺麗な背負い投げだったのを良く覚えています。

古賀稔彦との乱取りから得たものは?

そうして、とうとう古賀稔彦選手との試合形式の乱取りがはじまりました。

古賀稔彦選手との試合形式の乱取りの選考は私の中学校から2名、隣の中学校から2名でした。私の中学校からは、当時中学2年生だった私と、私の同級生が選ばれました。とても嬉しかったのを良く覚えています。

なぜ3年生ではなく2年生であった私達が選ばれたかというと、私の一つ上の先輩たちは6月の地区大会で負けてしまい、すでに引退していたからです。そこで、顧問の先生は来年を見据えて2年生から選んでくれたのだと思います。

隣町の中学からは3年生が2人選ばれて、計4人が試合形式の乱取りをすることとなりました。さすがオリンピック選手、みんな30秒くらいで投げられて帰ってきました。

そして私の出番は3番目でした、自分の組み手になって内股に入ったらあっという間に入った足を持たれ、すくい投げでぶん投げられました。この時思ったのは古賀稔彦選手は色々な技ができるのだなということでした。

今でも不思議なのは、4人と試合形式の乱取りをしたのですが、古賀稔彦選手の得意の背負い投げを一切使わなかったことです。そこは今となってもよくわかりませんが、2年後の平成4年に控えているバルセロナオリンピックのために無理をされなかったのかも知れません。

そのあと控え室に顧問の先生にわざわざ連れて行っていただき、色紙にサインを頂いたのと握手をしてくださって、「頑張って」と古賀稔彦選手から言われたのはとても良い思い出です。他にも古賀稔彦選手と試合形式の乱取りをしたい生徒はいたと思いますが、そんな中で自分を選んでくれた顧問の先生に今でも感謝しています。

その後、古賀稔彦選手はバルセロナオリンピックで見事金メダルを獲得しました。

古賀稔彦選手と試合形式の練習をしてから、技が上手くなったと言うよりは、オリンピック選手と練習ができたことで、大きな自信に繋がり、精神的に強くなれたと感じています。

大きな試合でも、古賀稔彦選手と練習したんだと思うと、自然と自信が湧いてきて、落ち着いて試合ができるようになっていきました。

(文・ダッカー)