心理学の専門家がキックボクシングジムに通って変化したものとは?

格闘技はもとより、運動と縁遠い自分がキックのジムに通い続けられたのは、そこに私の居場所感を作ってくれたインストラクターさんがいたからだ。

格闘技とは縁遠かった私にとって、ジム通いは何もかもが異種な体験の連続であり、それを続けられたおかげでちりも積もれば的に未開の地を開拓することができた。

それは私の世界観を広げ、またこれまで腰を据えて考えることがなかった暴力について私に新しい着想を与えることになった。

心理学の博士課程で学びながらキックボクシングジムに通う

ジムのロッカーに荷物を置き、鏡の前で眼鏡をはずしてコンタクトを付けているとリングでミットを持っているインストラクターさんの声が聞こえてくる。

「じゃぁはじめましょう!」「ジャブゥ!」「ワァンツゥッ!」と、明るくて、かつ角の取れた柔らかい声が響くと、無意識に元気が出て、そしてどこかジムに癒しが漂うのだ。

インストラクターさんの名前は真助先生(仮名)。年は私と同じく30代前半で、ベテランのインストラクターでありプロの選手でもあり、家に帰れば2人の娘さんのパパでもある。私が2年前にこのジムに入会して以来度々ミットを持ってもらっており、先生の試合があれば会場に足を運んでいる。

そんな私はこれまで運動をした経験がない。大学院の博士課程に通いながらフリーで心理学関連の仕事をしている私が従事していた師弟関係と言えば、もっぱら教授と学生というアカデミックな畑のものである。

つまり私にとって真助先生との関係は初めての「体育会系」な体験だったのだ。入会した当初はとにかく郷に入っては郷に従えを肝に銘じ、自らの個を滅して臨んでいたように思う。今思えば、大分肩ひじの張った様子が先生からは見て取れただろう。

心理学の専門家としてプロに質問されたこと

このジムに入会したのは勢いの他にない。友人に誘われて観に行った後楽園ホールの興奮が冷めやまず、気づいたら入会体験の予約をしていた。

まだおぼつかない手つきでバンテージを巻いていたある日、真助先生がやってきて、まだ人のいないジムで何気ない自己紹介のような会話が始まった。

「どんなお仕事をされてるんですか?」

「心理学が専門なんですけど、公立の学校でカウンセリングをしたり、大学で授業をやったりしてるんです」

常套手段な会話ではあるが、自分に興味を向けてもらえたようで嬉しかった。しかし、真助先生が違ったのはここでもう一歩突っ込んだところである。衝撃が走った瞬間であった。

少し貯めが作られた後、おもむろに笑みを見せて「強くなるにはどうしたらいいですかね?」と私に尋ねたのだ。

え??

よっぽどあなたの方が詳しいと思いますけど……。

一瞬何を聞かれたのか分からなかった。「個を滅して」「郷に従へ」の精神でいた私である。まさか畑違いの自分なんかにそんな助言を求めてもらえるなんて微塵も思っていなかった。

「俺に聞くということは心理の観点からコメントを求められてるんだよな…」というところまでは整理ができたが、そのときどう返答したかまでは覚えていない。ただ、これを機に安心を得た私がこのジムに居場所感を覚え始めたのは明確に覚えている。

プロ格闘家の率直な態度に衝撃を受ける

なぜこの出来事が衝撃的で、かつ居場所感を得て長くジムに通うことに繋がったのか。

それはこのジムで私という個性が、そのままの私らしさが認められていたからだ。つまりこの時、本来キックボクシングと全く関係のない「心理学を専門にしている」私の個性の部分に関心を向けてくれたことで、「個を滅して」キックの世界に迎合しようとしている私を本来の姿で受け入れてくれたのだ。

さらに真助先生の場合、仮にも教える側と教わる側という上下関係があるにもかかわらず、しかも「強くなる」という、私からしたら真助先生自体がその権化のように思っていたことに関して教えを乞い、自然で、素直で、率直な態度で下手に出られたのだから衝撃である。

インストラクターが生徒に与える個々の存在承認

以前、先生にこの居場所感の話をした際、誰でも楽しんでトレーニングができるようにその人の中で何か上達があるように指導するよう心掛けている、との話を聞くことが出来た。「その人の中で」なのである。

そのためには何をもって「上達」とするのかを、プロである自分を物差しにして判断するのではなく、以前よりフォームが良くなった、スタミナが付いた、筋肉がついた等、その人自身を基準として観察していくことが必要になるそうだ。

そして、さらに先生はそれを言語化して明確に本人へ伝えるところまで努めてくれていたように思う。この作業を通して、先生は「上手じゃなくてもいい、上達していければOKなんだよ」というメッセージをひとりひとりに伝えているのだ。

このようにして、真助先生はジムを利用する人たちに積極的な関心を寄せ、それが個々の存在の承認となり、居場所感へと繋がっているのではないだろうか。先生から指導を受けていたあの時、トレーニングの中で私という個が生きていたのだ。

格闘技経験による変化とは?

真助先生とのトレーニングを受けて、私は格闘技という未開の地を開拓することが出来た。「自らの個を滅して」「郷に入っては郷に従え」の精神で肩ひじを張るほど馴染みのない縁遠かった領域である。

その達成は大きい。勢いだけで突き立てたつるはしは雄峰に風穴を開けたのだ。トンネルを抜けて見えてきた景色が私に与えたものは二つ。ひとつは「自身の世界観の拡大」、もうひとつは「暴力と向き合えたこと」である。

格闘技による「世界観の拡大」

「世界観の拡大」とは、いわゆる「人生観が変わった」「価値観が広がった」「経験値を積むことが出来た」「見分を深める」などと言い換える、もしくは包含することが出来ようか。

やや曖昧で分かりにくい言葉で恐縮だが、井の中の蛙を脱せたことへの喜びと受け取ってもらえるとありがたい。

個人的に私は、様々な世界や人に触れることで多種多様な在り方や生き方を知ることと、自らが知らない物事が多分にある事実を知ることを大切に感じている。

真助先生との出会いで、限定的ではあるものの、時間をかけて格闘技の世界に触れることが出来たのは人としての幅が広がったように思い、非常に心地の良い体験だった。

人の怒りや暴力に対する理解の変化

もうひとつの「暴力と向き合えたこと」について、ここで言う暴力とはパンチやキック等の攻撃手段となる身体的な力そのものとは異なる。

身体的な力を単に危害を加えることだけを目的として利用したものを暴力(violence)とここでは呼んで区別しておきたい。

しかし、一方で「身体的な力」と「暴力」は結びつきやすい性質も持ち合わせており、日本ではとかく性と暴力はタブー視されることが多い。そうなれば腫れ物に触る感覚で臭い物に蓋をし、見て見ぬふりをして付き合い方を学ばなくなるのだ。

性も暴力も肉体を有する以上は必ず持ち合わせるものであり、その問題にぶち当たることもまた当然である。それを亡き者として扱うのは人間性の排除の他ない。

サンドバックに拳を当て、ミットに膝を入れることは暴力となりうる自身の力を目の前で確認できる作業であり、またその力の然るべき姿の実現でもある。

同時に、それ以外のかたちを呈すれば、それは然るべきではない姿になりうることもまた学ぶのだ。つまり、暴力ともなりうる自身の持つ力を当然の存在として認め、その然るべき姿を体得し、その向き合い方を習得することについて、真助先生とのトレーニングの中で考えることが出来たのだ。

それ以降、人の怒りや暴力を目の当たりにした際に自分も同じものを持ち合わせており、それには然るべき姿が存在することを思い起こすと、以前より恐れを抱きにくくなったのだ。

以上に挙げた点は私が今着想に至っているひとつであり、決して正解を示すものではない。今後キックボクシングを続ける上できっとその様相を変えていき、体験とともに気づきの幅を広げていくのが今も楽しみなのだ。

その後の真助先生はと言うと、やや遠くの地で独立を果たした。「上手じゃなくてもいい、上達していければOKなんだよ」という指導方針のジムである。

地元の人はラッキーだと思う。先生はこのジムが色んな人の健康づくりに役立っていく上で、キックボクシングを「ランニングのように、どなたにも気軽にチャレンジして」もらえるようにしていきたいそうだ。

何か運動を始めるうえで選択肢が増えるのは決して悪いことではない。私がそうであったように、増えた選択肢が様々な人の体験の幅を広げてくれることを心より願っている。

執筆にあたって、このコロナ渦で様々な難を強いられて大変であろうにも関わらず、快くコメントを返してくださった真助先生(仮)に感謝申し上げます。

(文・じーなか)