高校1年の夏、私は空手を始めた。
当時盛り上がっていた総合格闘技の選手になりたかった私は、なにか格闘技を習いたかったが、田舎の学校の部活動には武道競技がひとつも無かった。
そこで、部活は単純な体力づくりのためにと陸上部を選択。隣町にある道場で空手を習いに行くことにしたのが始まりだ。
後にプロの格闘家としてデビューする自分にとって、このときの空手の先生は人生の師と呼べるような人だった。
柔術を習っていた空手の先生
先生は、いかにもコミュニケーション下手な物静かな方だったが、空手でよくイメージされるような厳しい方ではなく、丁寧な優しい方だった。
格闘家になりたいと伝えると、先生は柔術のポジショニングやグラップリングも指導してくれた。
通常の練習時間は子どもの部の空手を習い、それが終わってからはマンツーマンでの寝技指導。実際、基礎を繰り返す空手の練習よりも、終わってからの寝技実戦練習の方が、当時の私にとっては楽しいものだった。
先生は、空手と並行して自分自身の趣味で柔術を習っている、と言っていた。
柔術が習える場所も紹介してほしい、とお願いしたが、先生は「まずは空手をしっかり身に着けてから」と言った。
早くプロ格闘家になりたかった私は、先生に柔術の稽古を認めてもらえるように空手に打ち込んだ。純粋に「空手が好き」ではなく、あくまでもプロ格闘家への足掛かりとしての空手であった。
不純な動機と思われても仕方がないが、動機はどうあれ、私は真剣に空手の練習をした。考えてもみれば、いろいろな格闘技をつまみ食いしても強くはなれない。強い選手は何かひとつの格闘技を極めていることが多い。先生は私の性格を見抜き、空手に打ち込むのが良いと考えていたのかもしれない。
安易にプロの道を勧めない先生
先生から教えて頂いた事で印象的だったのは、プロ格闘家を目指す私に、先生が「プロとは何か」を説いて頂いた時のこと。
「朝起きてから、夜寝るまで常に誰かがお前を見てる。
寝起きがだらしなくないか。ご飯は何を食べてる。友達とはどんな会話をしているか。
服や身なりは清潔か。夜遊びばかりしていないか。日々、積み重ねるべき事を折れずに重ねていけているか。努力を惜しまない様子が見られるか。
それらすべてを全て見せられるような生き方をする事が、プロだろう。その覚悟が無いなら、今の時点でやめた方が良いよ」
つまりは、ストイックで居続けろという意味なのだが、当時の私にはとてもしっくり来る話だった。
どの世界でもプロとしての自覚は必要
5年後、プロ格闘家としてデビューはできたものの大きな実績は残せないまま引退し、いまは会社員となっている。
会社員としての仕事も、プロとしての仕事だ。私と取引をするお客さまや、私の指導を受ける部下との信頼関係を作るには、私のすべてを見てもらう覚悟が必要だ。
たとえば私が、夜お酒を飲んでいるときに偶然取引先や部下に見られた時に前後不覚に酔っぱらっていた場合、次の日から私の指示やお願いを素直に聞くことはできなくなるだろう。
そういう意味で、やはり会社員も立派なプロであり、常に人に見られている意識を持つことこそが、プロとしての仕事ではないかと思う。
こんなことを考えるとき、空手の先生のいう「プロとは何か」の話を思い出す。自分の生活のどこを切り取っても、信頼される人間になるという考え方は、格闘技を離れた今も生き方の礎になっている。