来年いよいよ還暦を迎える男性です。
プロレス少年でアントニオ猪木の熱狂的信者だった私、そして、クラス一の痩せぎすだった私が、一念発起して大学入学と同時にレスリングに挑戦しました。
レスリングへの入部のいきさつや、当時行っていた減量方法について振り返ってみようと思います。
プロレス少年が待望のアマレスラーに
中学・高校と熱狂的なプロレスファンだった私であるが、大学に入学するや否や、迷うことなくレスリング部の門を叩いた。高校時代についたあだ名はピンクパンサー、身長169cm、体重52㎏と世間がイメージするアマチュアレスラーとは程遠いサイズ感。
しかし、体育会のサークル活動に力を入れている大学ではなく、マイナースポーツゆえに部員獲得に苦労していた背景もあり、二つ返事で入部を許可してもらえた。
プロレスこそは地上最強の格闘技と信じ、その格闘技ロードを思いのほか順調にスタートさせたものの、入部初日にして大きなショックに打ちひしがれる。当然のことではあるが、高校卒業と同時に密かに練習していたバックドロップやブレーンバスターの出番はない。プロレスリングとアマチュアレスリングは全くの別物だった。
プロレスに憧れて、基礎体力づくりは行っていたので、なんとか練習についてくことはできた。ほどなくして年1回行われる9階級の代表選手による大学対抗リーグ戦に48kg級代表として出場することになる。これまで体重を増やすことしか考えてこなかった私が、減量に挑戦することになったのである。
40年前に経験した減量方法を紹介
当時の私はやせ型で、保健室や理科室にある骸骨の標本にうっすら肉をまとったかのような体躯だった。当時はまだ体脂肪計が存在していなかったため正確には分からないが、通常体重(52~55kg)でも体脂肪率は一桁代であったと思われる。
そんな私であるから1~2kgの減量でも結構堪えた。とくに49kg以下になると体重計の目盛りの動きが急激に鈍くなる。劇画「あしたのジョー」に出てくる矢吹丈(やぶきじょう)に自分を重ね合せて、ひたすら我慢の日々を送っていた記憶が今でもよみがえってくる。
自己流ながら回数を重ねるごとに上達
初回の減量こそまさに手さぐり状態であった私であるが、回を重ねるごとに自分流の減量法が確立されていった。
まず、自分にとって体重が増えやすい食物がわかってくる。私の場合は、多くの人がそうであるように炭水化物の米、そして脂質の多いチーズであった。
ピザが大好物の私は、減量開始の当日、通学途中にあるシェーキーズのランチタイムで食べ納めをすることが、いつの日からか試合前のルーティンになっていた。
また、減量のタイムスパンということでは、試合の1ヶ月前から徐々に米の摂取量を減らし、2週間前から1日1食にして(もともと私は1日2食であったが)、前々日あたりから軽食、時には絶食で臨んでいた。
最後の絞り込みは腹筋運動で
なお、水分に関しては、いくら摂取しても必ず汗や尿で排泄する自信があったため、試合前日も含めて、飲みたいだけ飲んでいた。正確に調べたことはないが、私は体内に占める水分の割合が圧倒的に高いタイプだと思っている。
減量に苦戦した時の対処法として、減量着を来て走ったり、サウナに入ることを思い浮かべる人が多いと思うが、当時、腹筋が際限なくできた私は、少しでも体力を温存して体重を落としたかったため、トレーナーを2~3枚重ね着して、床と身体の接地面がこすれてひどい痛みを感じるまで、得意の腹筋をし続けた。
むしろランニングやサウナの方が楽に感じるかも知れないが、とくに下半身に疲れを残したくなかった私にとって、腹筋は最良の減量メソッドだったのである。
減量は成功し、階級内で「大きい」選手に
余談になるが、試合前、対戦相手のセコンドから、
「あいつ、でけえー。ちゃんと計量しているのかよ」
と野次られたことがある。
確かに当時、日本はおろか世界を探しても、私より身長が高い48キロ級のアマチュアレスラーはいなかったと思う。レスリングという階級制のスポーツを体験したからこそ、一生涯言われることがなかったであろう「大きい」というフレーズを耳にすることができたわけで、今でも思わずほくそ笑んでしまう。
なお私は、5年半ほど前から、脳出血を発症して半身麻痺になった弟の介護をしている。常にオーバーワーク気味にもかかわらず、レスリング選手だった頃のリミットにあたる48kgで、不思議と体重が下げ止まっている。おそらく私の身体にとって、この48kgという体重は居心地が良いのだろう。
介護で疲れ切った時でも、この体重でレスリングの試合に出場していた日々を思い出すと、決して挫けることなく頑張り続けて行きたいと思えてくる。