あれは私が20代の半ばにさしかかった頃、まだ武道の道の厳しさや難しさ、何よりも武道そのものの恐ろしさを思い知っていなかった、生意気盛りだった1998年のことです。
当時の私はある伝統派空手を学ぶかたわら、同じ道場で指導していたスポーツチャンバラも学んでおり、師匠からスポーツチャンバラの教室を任されたばかりでした。
師匠の名は、仮にT先生としておきます。年齢は私より十歳近く上だったと思います
このT先生に最初は空手で入門したのですが、「空手にも絶対にいい影響があるし、参考になるはずだから」と熱心に誘われる形でスポーツチャンバラも始めました。
つまり私にとってT先生は、スポーツチャンバラのみならず空手の師でもあるのですが、ここではスポーツチャンバラの師匠として話をしたいと思います。
試合前の不安によるネガティブな言動
大会出場を翌日に控えた私はT先生と道場で話をしていたのですが、どうもいつの間にか明日の試合は誰が相手か、勝てるだろうか、いや多分勝てないかもという事を口走っていたようで、不意にT先生からこう言われたのです。
「それだ!君の一番悪いクセだよ。謙虚なのはいいが、慎重になるあまり、やる前から色々考え過ぎる。結果として、俺には勝てないかも、と実際にやる前に悪い結果をイメージして、試合でも本当に負ける。言っておくが、そのクセのせいで勝てる試合も今まで何度も落としてる。それが分からんか?」
私は、はっとしました。そうだ、確かに試合する前から負ける事を考えても仕方ない。
まずは思い切りやろう
負けて元々、勝負はやってみないと分からないではないか。だったら明日は先ずは練習したことを信じて、思い切りやろう。
それでも負けたら、その時こそ、「いやあ、精一杯やってみたけどダメだった」といって笑えばいいではないか。
そう思い至った私の心中を知ってかどうか、T先生は私の背中を押すように言いました。
「明日はとにかく、積極的に前に出る事だけを心掛けなさい。そうすれば、結果はついてくる」
この言葉で迷いの消えた私は、翌日の大会で準優勝の好成績を修めたのです。
師に結果を報告した際に言われた一言です。
「な、言った通りだろ。前に出る積極性さえ失わなければ、君は勝てないまでもそう簡単に負けることもない。それだけの実力はあるんだよ」
ああ、そうか、と思いました。誰よりもT先生ご自身が、私の実力を認めて下さっていたのです。
心の中で師に言いました。
(師匠、ありがとうございます)
武道の世界の挨拶を学ぶ
T先生は一言でいうと、尊敬できる部分の多い素晴らしい先生でした。T先生をいいお手本として学ばせていただいたことは沢山あります。
例えば何かのイベントや出稽古等、道場ぐるみで出かける事がある時、T先生は多くの場合、私を連れて出かけることがよくありました。
そこで目にしたのは、出先で先ずは関係者である知り合いに挨拶し、次いで知り合いにお願いして引き合わせてもらう形で責任者にも挨拶する。
帰る時も必ず面倒がらず両者に挨拶し、きちんと招いていただいた礼も述べた上で失礼する。
(自分なら知り合いにだけ挨拶して、あとはよろしく言っておいて、と帰るところだ。武道の世界の挨拶やつながりは、こういう部分が大事なんだな)
今ならそれはごく当たり前のことをしていただけだと分かりますが、当時社会人経験がまだ浅く、仕事上の挨拶の仕方しか知らなかった私には物凄く勉強になった部分でした。
私が素直にそう思えるほどのいいお手本を、T先生は身をもって示して下さっていたのです。
ポジティブに生きるのがクセになった
私は怪我をしたことが原因で元々の本分だったはずの空手の方でスランプに陥り、結果それを克服できないまま、道場を辞めてしまいました。
私自身が不甲斐ないだけの話ではあるのですが、空手という武道の恐ろしさを思い知らされて、それを越えることが当時の私には出来なかった。
それだけにT先生には、受けた恩を何もお返しできないままになってしまい、今でも申し訳なく、いつか何かでお役に立ちたいと思っています。
されども不肖の弟子だったからこそ、というと変ですが、未だにその教えは、私の中に残っている。そう自信をもって言えます。
少なくとも何かをやる前から結果を気にして何もしない、ということだけはしなくなりました。結果を恐れず先ずはやってみよう。失敗したら失敗したで、それでいいじゃないか。精一杯やってダメなら、仕方ない。一番ダメなのは、結果がまだ出てもいない内にダメなようにいうこと。
ネガティブより、ポジティブ。今もって私の中で、信条になっています。
今では空手の世界を離れ、縁あって居合道の世界にいる身ですが、武道に限らず、何かの結果が出る前から否定的なことを言う人を見た時に、私が口癖のようにかける言葉があります。
「あのね、実際にやってみる前から、私には無理だ、出来っこない、なんて事ばかり言っていたら、アナタの人生はずっとそうですよ。先ずはやってみましょう。その結果がダメだった時に、思い切り悔しがればいいんです」
少なくとも今は、すっかりポジティブに生きるのがクセになりました。
(文・十九川寛章(とくがわひろあき))